連休を前にして墓地の草取りに一日励みました。
普段あまり体を動かさないせいか腰が痛くてどうしょうもありませんが、綺麗になった墓地は清々しいものがあります。
先般、三春の滝桜を見に行ってきました。平日のせいか心配した駐車場にも余裕があり。樹齢千年という桜を堪能してきました。しかし、5年前と比較してその美しさに陰りが見え、樹木も少し痩せたようにも思えました。
「修証義」というお経の中にこんな一節があります。
「無常たのみ難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身すでに私に非ず、命は光陰に移されて暫くもとどめ難し、紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするするに蹤跡(しょうせき)なし、つらつら観ずる所に往時の再び逢うべからざる多し、無常たちまちに到るときは国王大臣親暱(しんじつ)従僕妻子珍宝たすくる無し、唯一人黄泉に趣くのみなり、己に随い行くは只是れ善悪業等のみなり」 河の水のごとく、時は刻々に流れてやまず、まことに頼りないものであります。私どもの身命は、自分の自由になるものではなく、いつの間にやら年を取り、若さが失われ、かっての紅顔の美青年の面影はいったいどこにあるのか、跡形さえも残っていない。心静かに考えてみると、過ぎ去った時は二度と還らず、無常の風の前には、いかなる権力をもってしても、親子兄弟や友人などの親しい人情をもってしても、または妻子の限りない愛情や金銀財宝の力をもってしても、何らの助けにならず、唯一人あの世へ旅立つほかないのであって、自分に随ってくるものはただ一つそれは生きている間につくった自分の善悪の行いだけだ。
生きている間には、何かと後悔することもありますが、それを上回る善行を行えれば良しとしなければなりません。
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